天保地区"

 天保堰は、大館藤兵衛元忠から7代目の子孫、大館藤兵衛元貞により計画された。 天保3年(1832年)に藩命を受け、まず田沢川から取水する延田堰を造ったが、田沢川のポテンシャルが低いため、新しい水源を求め月山山中を探し回り、 田麦川水系の金剛山川(象の倉)から取水地点を発見する。着工は天保8年(1837年)だが、難工事に次ぐ難工事で毎日1千人に及ぶ人夫を動員して、 半年をかけて9.9㎞の用水路の完成をみることとなった。この功績により、元貞翁は庄内藩より就寝、米2俵を与えられるとともに苗字帯刀を許され、大堰守、大組頭格に任じられた。 今も天保地区の祭神として崇められているという。現在の総延長は11.9㎞m、取水量は2.413m3/s。灌漑面積435haで、8か所のトンネル(計2984m)を貫いている。 天保堰から田沢川へ注ぐ終点部は、15mの落差があり、そのため水しぶきが上がって、煙のように見えることから煙見の滝と呼ばれている。 私は、まだ天保堰を通して歩いたことが無く、当時の先人のご苦労を感じたく非灌漑期には是非歩いてみたいと思っている。
  越中は、赤川上流梵字川右岸(三栗屋)に取水している。主に旧旭村・櫛引町・羽黒町の500ha弱を潤している。 起源は元禄15年(1702年)に大館藤兵衛元忠翁が11年の年月を費やして開墾されたそうである。 当該地区は標高が高いため、赤川からの取水が難しく、そのため測量・計画作成に5年の年月を必要としたことからも水路位置の検討に苦労したことが偲ばれる。 昭和24年~35年にかけて県営越中堰事業により取水口を現在位置に変更、取水量2トンで、最終地点は鶴岡市(旧櫛引町大字成沢)の仏生沢までの11.8㎞。 越中堰付近は早田川に遡上するサクラマスの中間定位場になっていると考えており、研究室では水深、底質などの基本構造の把握を行っている。(2015.渡邉)

越中堰

天保地区図