早田川紹介

 庄内赤川土地改良区の主幹水路である青龍寺川は、慶長年間(慶長14年頃1609年)京田郷本郷村(鶴岡市大字本田)の豪族工藤掃部によって開墾創業された。
  工藤掃部が山野を駆け巡って調査した結果、熊出村に江口を見立て赤川から直接取水する工事を計画し、艱難辛苦を経てついにこの巨大な人工河川を完成するに至った。
  工藤掃部の偉業を称え郷民は「掃部川」と小史、また「本郷川」とも唱えた。のちに明暦4年(1658年)「新町川」また「番田川」とも唱えられた。 その後、現在の金法山麓の真言宗宝山派寺院を金法山青龍寺というが、この青龍寺組の区域にある田野を貫流している所から川名を青龍寺川と唱えたことに由来している。
  本土地改良区の上流部は母狩山系の山岳部に接するため、青龍寺川の支流水無川の洪水に悩まされ、治水・治山が長年の課題であったが、 昭和33年に水無川砂防大堰堤、昭和45年には懸案であった、水無川を赤川に直接放流する捷水路が完成した。 また、昭和60年に灌漑用水と洪水の調整を行う丸岡分水堰が造成された。
  西2号幹線用水路の名称もつけられているが、やはり青龍寺川がふさわしい。本田以外にも多くの分水工を持ち、赤川左岸の田園地帯を広く潤している。 一方、京田・栄などの主力産地はパイプライン化が進んでおり、水路内の魚類相は貧である。(2015.渡邉)

青龍寺写真

青龍寺地区図