食用ぎくの歴史
食用菊>食用ぎくの歴史


  『本草綱目啓蒙』(1803年)より
  「甘菊」、「料理ギク」の記述

食用ぎくの歴史

 キクは中国原産で現時栽培されている六倍体のキクが成立したのは唐代といわれ、日本には奈良時代の頃に渡来し、観賞用として、また、薬用として利用されきました。いつごろから現在のように花びらを食べる利用法が始まったのかは定かではありませんが、菊を食用とする記述が文献上に現れるのは江戸時代になります。

 『本朝食鑑』(1695)には菊の花びらを煮て、醤油につけたり羹に入れる食べ方が記述されています。また、『本草綱目啓蒙』(1803)には、食用に向く菊を「甘菊」(アマギク)または「料理ギク」と称し、「本邦」に伝えられている「甘菊」は「皆黄色」との記述があります。

   蝶も来て酢を吸ふ菊の膾哉   芭蕉

 芭蕉はこの句を元禄三年(1690)の秋、近江堅田で詠んでいます。かつては菊を食べる習慣は東北に限ったものではなかったようです。
 1951年の『農作物の地方名』の「食用ぎく」の項には、日本各地の食用ぎくの地方名が収録されています。これを見ると、当時は東北・新潟に限らず比較的広い範囲で菊が食用に栽培されていたことがうかがえます。


『農作物の地方名』(1951)より「食用ぎく」の項

「もってのほか」「かきのもと」の由来

 紫色(実際には白に近いピンクから濃紫赤色まで幅がありますが、一括して紫色とします)の食用菊は、新潟・山形県にのみ栽培され、それぞれかきのもと」「もってのほかが有名ですが、いつごろから紫色の菊が食べられるようになったのでしょうか。

 昭和10年頃の食用菊の色の割合を見ると昔は今ほど紫菊が多くなく、特に内陸では黄菊が多かったようです。山形県では、庄内地方で紫菊の割合が高く、置賜、村山、最上の順に広がっていったことがうかがえます。

 「もってのほか」は山形県の代表的な紫の食用ぎくですが、その名の由来は、菊(御紋)の花を食べるのはもってのほか、○○に食わすのはもってのほか、などといわれています。しかし、『農作物の地方名』には、「もってのほか」の名称の記載はなく、代わりに「おもいほか」の記載があります。「もってのほか」と「おもいのほか」はともに漢字で「以の外」と表記され、「もってのほか」は「以の外」(おもいのほか)を文字読みしたとする説があります。現在でも新潟県長岡地方では「おもいのほか」という名称が用いられています。

 「延命楽」は「かきのもと」「もってのほか」の正式名ともいわれていますが、「延命楽」は山形県庄内地方で用いられていた呼称で、江戸時代の文献にもその名が出てきます。ちなみに昔は「淵明楽」と表記され、菊の花を愛したことで有名な中国東晋末の詩人陶淵明にちなんだ名であるといわれています。

 「もってのほか」「かきのもと」「延命楽」は、いずれも晩生の食味に優れた紫色・管弁のキクですが、これらのキクはお互いに遺伝的に近縁で、このグループのキクを“袋菊”と呼びます。“袋菊”を各地から集めてみると少しずつ形質が異なった多くの系統があり、どれが本来の「かきのもと」「もってのほか」「延命楽」なのかわからなくなっています。それは、栽培の歴史が長いため、さし芽で自家繁殖しているうちに枝変わりよって変異が生じ、それぞれの地方の風土・文化にあった形質のものが選ばれてきたからです。


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山形県および新潟県山北における食用ぎくの色の変遷
本間ら(1991)のデータをもとに作成


新潟県および山形県における“袋菊”の呼称